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__韓国の歴史教科書はウソだらけ (画像有)__

122 :マンセー名無しさん:2006/09/09(土) 23:41:20 ID:KR4JzPrY
根拠のない朝鮮式世界史より、↓のほうがまだ根拠がある。

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古代朝鮮には任那日本府があり、朝鮮の一部地域は日本の領土だった。

346年、任那日本府の人々は日本から独立し、百済となのる。

そのころからウリナラマンセーだった土着朝鮮人とはちがい、
百済人は積極的に中国の技術を吸収した。中国からの移民も多かった。

600年、朝鮮スルーして中国へ行く遣隋使がはじまる。

660年、唐の威を借りた土着朝鮮人国家の新羅に倒される。
倭国の支援もあったが多勢に無勢で無念。
百済支配階級(もと日本人)がいっせいに日本に亡命。
なぜか中国に亡命するものは少数派。

ウリナラマンセーな土着朝鮮人により百済のあらゆるものが破壊され、
朝鮮全体が百済勃興以前のレベルに逆戻りする。

日本は日本系帰化日本人により発展する。
1300年も前にして日本>>>朝鮮の図式が確定する。

123 :マンセー名無しさん:2006/09/10(日) 08:37:51 ID:ZS/NHh8r
  BC202〜AD008年 前漢
BC108年 楽浪郡設置(前漢武帝)

  AD025〜220年 後漢
AD206年 遼東国の公孫康(父が公孫度)が帯方郡を分設
       (高麗と鮮卑の間に居た夫余王尉仇台が、公孫度の娘を嫁に貰い帯方郡へ百家済海)

  AD220〜265年 三国志魏
AD246年 高麗討伐・ワイ族の服属・韓の滅亡(三国志魏カンキュウケン・楽浪太守劉茂)

  AD265〜317年 西晋(三国志魏書東夷伝倭人条AD280年ごろ)
AD313年 楽浪郡滅亡(楽浪太守張統が遼西の前燕国の鮮卑族慕容氏に亡命)
AD314年 帯方郡滅亡(夫余王尉仇台の子孫(百済←百家済海)が独立か?)

  AD383年 肥水の戦い
  AD317〜420年 東晋・AD420〜479年 宋・AD479〜502年 南斉 
  AD351〜394年 前秦・AD386〜534年 北魏
  AD400年ごろ 高麗(高句麗・遼東)の好太王の頃
  AD436年 北燕国(遼西)の龍城が北魏により陥落・
         亡命した先の高麗(高句麗)が南斉の使者を無視し北燕国馮氏を暗殺
AD475年 魏虜(北魏・鮮卑族拓跋氏・
          均田制の孝文帝の母の太皇太后)が百済(楽浪)へ襲来
AD512年 新羅が国号と王号を名乗る

  AD589〜618年 隋・AD618〜907年 唐
AD655年 新羅が、高麗・百済・マッカツ(渤海)の3国に攻められ北界30城を奪われる。
AD660年 百済が唐の奇襲で滅亡・百済大姓八族の沙氏や黒歯など豪族が蜂起
AD663年 白村口(白江口)の戦いでマッカツの夫余族の水軍(唐軍)に倭水軍が敗戦
AD665年 泰山の祠の盟約・百済が未だにマッカツの占領下にある。
AD668年 唐の遠征で高麗(高句麗)滅亡

124 :マンセー名無しさん:2006/09/10(日) 08:38:42 ID:ZS/NHh8r
資治通鑑巻第二百一 唐紀十七 高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之上

[百済西部の人、黒歯]常之と別部将
沙□相如は、各々険に據り福信に応じたが、百済が敗北すると部下を率いて降伏した。
劉仁軌は常之、相如とその部下達へ任存城を取らせようと、兵糧を与えてこれを助けた。
すると孫仁師が言った。「こいつらは獣心だ。何で信じられるか!」
だが、仁軌は言った。「我の観るところ、この二人は忠勇で謀略もあり、
信に厚く義を重んじる人間だ。ただ、前回は託した者が悪人だっただけ。
今、まさに感激して功績を建てる時だ。嫌疑は不用だ。」
遂に糧杖を配給し、兵を分けてこれに従う。
唐軍は任存城を抜き、遅受信は妻子を棄てて高麗へ逃げた。
劉仁軌は兵を率いて百済を鎮守し、孫仁師、劉仁願は還るよう詔が降りた。
百済は戦乱の後で、家などは焼け落ち、屍は野に満ちていた。
仁軌は屍を埋葬させ、戸籍を作り、村へ人を集め、官長を一時代行し、
道路を開通させ、橋梁を立て、堤防を補強し、
陂塘を復旧し、耕桑を勧め、貧乏へ賑給し、孤老を養い、
唐の社稷を立てて正朔と廟諱を頒布した。
百済は大いに悦び、皆、生業に安んじた。
仁軌は、その後に屯田を修めて、兵糧を蓄え、士卒を訓練し、高麗を図った。
劉仁願が京師へ至ると、上はこれへ尋ねた。


『南齊書』列傳第三十九蠻東南夷 梁蕭子顕撰
是歳魏虜又發騎數十萬攻百濟入其界
牟大遣將沙法名賛首流解禮昆木干那率衆襲撃虜軍大破之。
 この歳(年)、魏虜(北魏)また數十萬騎を發し百濟を攻めるに、その界に入る。
 [百済王の余]牟大は、沙法名、賛首流、解禮昆、木干那の[四武]將を遣わし、衆を率い
 虜軍(北魏軍・北虜の軍・北方異民族の軍)を襲撃し、これを大いに破る。


125 :マンセー名無しさん:2006/09/10(日) 08:49:58 ID:ZS/NHh8r
『舊唐書』東夷傳 (高麗・百濟・新羅・倭國・日本)
後晋 劉 xu[日句] 他 撰

百濟國、本亦扶餘之別種、嘗爲馬韓故地、
在京師東六千二百里、處大海之北、小海之南。
東北至新羅、西渡海至越州、南渡海至倭國。北渡海至高麗。

> 時百濟本地荒毀、漸爲新羅所據、隆竟不敢還舊國而率。

漸らく(しばらく)新羅の所據(所処)と爲(為)り、
時に百濟(百済)の本地は荒毀(破壊)す、
隆(夫余隆)は竟じて敢えて還ら不して、舊國(渤海マッカツ)にて而して率す。

> 其孫敬、則天朝襲封帯方郡王、授衛尉卿。
その孫の敬(隆の孫の夫余敬)に、
すなわち天朝(唐王朝)が襲封せし帯方郡の王なり、衛尉卿を授く。

一時的に百済は、新羅の土地となって破壊されたが、
唐王朝は百済を、渤海人(渤海靺鞨の部族・帯方郡王の夫余敬)の所領とさせていた。

> 其地自此爲新羅及渤海靺鞨所分、百濟之種遂絶。

その地(百済の地)は これより新羅
および渤海靺鞨(渤海国)の所分となし、百濟の種(民族)は、ついに絶す。


126 :マンセー名無しさん:2006/09/10(日) 08:55:17 ID:ZS/NHh8r
『舊唐書』東夷傳 (高麗・百濟・新羅・倭國・日本)後晋 劉 xu[日句] 他 撰
百濟國、本亦扶餘之別種、嘗爲馬韓故地、在京師東六千二百里、處大海之北、小海之南。
東北至新羅、西渡海至越州、南渡海至倭國。北渡海至高麗。
貞觀元年、・・・十五年、璋卒、其子義慈遣使奉表告哀。・・・
遺使冊命義慈爲柱國、封帯方郡王、百濟王。・・・永徽二年、・・・
六年、新羅王金春秋又表稱百濟與高麗、靺鞨侵其北界、已没三十餘城。
・・・顯慶五年、命左衛大將軍蘇定方統兵討之、大破其國。
虜義慈及太子隆、小王孝演、偽將五十八人等送於京師,上責而宥之。
・・・文度濟海而卒。百濟僧道tin[扁王旁右深]、舊將福信率衆據周留城以叛。
遣使往倭國、迎故王子扶餘豊立王。・・・劉仁軌之辭也。
歃訖、埋幣帛於壇下之吉地、藏其盟書於新羅之廟。
仁願、仁軌等既遣、隆懼新羅、尋歸京師。
儀鳳二年、拜光禄大夫、太常員外卿兼熊津都督、帯方郡王、令歸本蕃、安輯餘衆。
時百濟本地荒毀、漸爲新羅所據、隆竟不敢還舊國而率。
其孫敬、則天朝襲封帯方郡王、授衛尉卿。
其地自此爲新羅及渤海靺鞨所分、百濟之種遂絶。

>永徽二年、・・・六年、新羅王金春秋又表稱
> 百濟與高麗、靺鞨侵其北界、已没三十餘城。 

永徽二年(651年)、・
・・六年、新羅王の金春秋また表を称し(唐王朝に上表し、唐に助けを求めた文に)
百済と高麗(高句麗)と靺鞨(渤海)が、その北界(新羅の北部)を侵かし(侵略し)
すでに三十余城が没した(陥落した・渤海や高麗の手に落ちた)。


127 :マンセー名無しさん:2006/09/10(日) 09:04:49 ID:ZS/NHh8r
『資治通鑑』巻第二百一
麟コ二年(乙丑、六六五)
10.上命 熊津都尉 扶餘隆 與 新羅王 法敏 釋去 舊怨;
八月,壬子,同盟于 熊津城。劉仁軌 以新羅、百濟、耽羅、倭國使者
浮海西還,會祠泰山,高麗亦遣 太子福男 來侍祠。
  ↓ ↓ ↓ 
泰山の祠に會い 舊怨を去り赦釋せん

麟コ元年(甲子、六六四)
 冬,十月,庚辰,檢校の熊津都督の劉仁軌 上(かみ)に言す。
 ないし扶餘隆を以って熊津都尉と為し 使いして其の餘衆を集め招く。
麟コ二年(乙丑、六六五)
 10.上(かみ) 熊津(くまなり)都尉の扶餘隆(プヨりゅう)と
 新羅王の金法敏(キンほうまい)ともに
 旧怨を釈(ゆる)し去(さ)らんとせよ と命ず。
(永徽六年 百濟と高麗靺鞨[扶餘氏]は 兵を率い 其[新羅]の北界を侵す『舊唐書』)
 八月 壬子(みずのえネ) 熊津城(くまなりジョウ)において同盟す。
 劉仁軌(りゅうジンキ)
 新羅(しらぎ)百済(くだら)耽羅(とむら)倭国(やまと)の使者を
 以(も)って また高麗(こうくり)もまた
 太子の福男(フナンなる名前の人)を遣わし来たりて 祠(ほこら)に侍(はべ)る。
 泰山(たいざん)の祠(ほこら)に会(あ)う。 海に浮かびて西より還(かえ)る。

隋(581−617)唐(618〜907)
渤海靺鞨(698〜733〜926)
新羅(金真平王576〜敬順王935・弓裔901〜919)

128 :マンセー名無しさん:2006/09/10(日) 09:10:50 ID:ZS/NHh8r
遂に韓を滅ぼす・百濟は靺鞨(渤海夫餘氏)の所分
『三国志 魏書』烏丸鮮卑東夷傳−韓条 晋陳寿選
@公孫模 張敞等 興兵 伐韓穢 倭韓遂 屬帶方。A呉林 以樂浪本 統韓國 分割辰韓八國 以與樂浪。
B吏譯轉 有異同 臣智激 韓忿 攻帶方郡崎離營。時太守弓遵 樂浪太守劉茂 興兵伐之 遵戰シ 二郡遂 滅韓。
『通典』邊防東夷上百濟新羅倭國 唐杜佑撰
百濟 大姓有八族:沙氏 燕氏 〔力〕氏 解氏 真氏 國氏 木氏 〔白〕氏。
其舊地没 於新羅靺鞨夫餘氏 〔百濟八族〕君長遂 絶。
『舊唐書』東夷傳−百濟条(旧唐書−百済伝)
時百濟 本地荒毀 漸爲新羅所據 〔夫餘〕隆 竟 不敢還舊國 而率。
其孫〔夫餘〕敬 則 天朝 襲封帯方郡王 授衛尉卿。
其地 自此 爲新羅及渤海靺鞨所分 百濟之種遂 絶。
『舊唐書』東夷傳−新羅条(旧唐書−新羅伝)
(貞觀)二十一年(647年)善徳卒立其妹眞徳爲王(眞徳女王)加授柱國封樂浪郡王。
(貞觀)二十二年(648年)眞徳遣其弟國相伊贊干金春秋及其子文王來朝。
(永徽)三年(652年)眞徳卒爲舉哀。詔以春嗣(龍春?文興王?)立 爲新羅王 加授開府儀同三司 封楽浪郡王。
(永徽)六年(655年)百濟與高麗靺鞨 率兵 侵其北界 攻陷三十餘城 春秋(武烈王?)遣使 上表求救。
顯慶五年(660年)命 左武衛大將軍 蘇定方 爲熊津道大總管 統水陸十萬。仍令 春秋 爲嵎夷道行軍總管、與走方
討平百濟 俘其王(捕虜となる靺鞨王)扶餘義慈 獻于闕下。 自是 新羅漸 有高麗百濟之地 其界益大 西至于海。
龍朔元年(661年)春秋卒詔其子太府卿法敏(文武王?)嗣位。
> 『資治通鑑』巻第二百一 麟コ元年(甲子、六六四)
> 冬,十月,庚辰,檢校熊津都督劉仁軌上言:・・・仍以 扶餘隆 爲熊津都尉,使招 輯其餘衆。
> 儀鳳二年(677年)扶餘敬 帯方郡王 衛尉卿
> 56年後に 渤海靺鞨 入寇 登州(山東省東莱郡登州) ※渤海=靺鞨=扶餘氏
法敏以 開耀元年(681年)卒 其子政明(神文王?)嗣位。

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